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現代語訳

この山の神は、徒手に直に取りてむ

そこで「この山の神は、素手でじかに殺そう」とおっしゃって、その山に登るとき、白い猪が山の麓で(倭タケルに)出会った。その大きさは牛のようであった。そこで大言壮語して「この白猪に化けているのは、その神の使者だろう。今殺さなくても、(山の神を殺して)帰るときに殺そう」とおっしゃって登っていった。

ここで大雨が降って、倭建命を打ち、正気を失わせた〔この白猪に化けていたのは、その神の使者ではなくて、神自身であったのに、大言壮語したので(神の怒りを買い、神の降らせた大雨に)惑わされたのである〕。そのため、下山なさって玉倉部という所の泉に着いて休まれたとき、御心がやや覚めた(正気に返った)。そこで、その泉を名付けて、居覚めの清水という。

原文書き下し

是に詔りたまひしく、「この山の神は、徒手[むなで][ただ]に取りてむ」とのりたまひて、其の山に[あが]りましし時、白猪[しろゐ]山の邊に逢へり。其の大きさ牛の如くなりき。爾に言擧[ことあげ]して詔りたまひしく「是の白猪になれるは、其の神の使者[つかひ]今殺さずとも、還らむ時に殺さむ」とのりたまひて騰り坐しき。

是に大氷雨[]らして、倭建命を打ち惑はしき(此の白猪に化れるは、其の神の使者に非ずて、其の神の正身[ただみ]に當りしを、言擧に因りて惑はさえつるなり)。故、還り下り坐して、玉倉部の清泉[しみづ]に到りて[いこ]ひ坐しし時、御心[やや][]めましき。故、其の清泉を[なづ]けて居寤[いさめ]の清泉と謂ふ。

徒手に直に取りてむ
言向け和せと言われた筈なのに、やはり殺戮を繰り返す倭建なのだった。しかもありがたい草薙剣なしでいこうだなんて大丈夫?
白猪山の邊に逢へり
山の神の化身のポピュラーなもの。朝廷外の勢力や異世界の者は、海なら鰐鮫、河沼なら蛇、山なら鹿・猪・蛇、となるケースが多い。日本書紀では、猪ではなく蛇になっているが、どちらも正しい。原文「白猪逢于山辺」となっており、主語は白猪。この構文を見ただけで、この白猪は神なんだな、とピンとくればツウだ。
言擧
自分の意見・判断に基づいて明言すること。現代語訳では「大言壮語」としたが、これは己を過大評価した判断に基づいて発言した場合の訳である。
この条、倭建がタブーであるコトアゲを行ったので、災いを受けたとする解釈が大勢であるが、別解釈もできる。実はコトアゲはタブーでも何でもない。ただ、とりたてて発言することは、神の耳に入りやすい性質を持っており、うっかり神に失礼なことを言うとてきめんに天罰が下ることがあるだけだ(倭建のコトアゲはその典型。先の「徒手で直に取りてむ」が神の怒りを買わなかったのは、まだ山に登る前で神の勢力圏に入っておらず、神の耳に入らなかったから)。
その同じ性質が、神に願望を伝えようとするときに幸いする。ただし、日本の神は無言の祈りを聞き届ける力を持つ。ことさらに願望をコトアゲすると「言わんでも分かっとるわい! わしの力を疑うんか!!」と激昂したりするので、神社にお参りするときなどにはふつう願い事を声に出さないのだ。不吉な予想や願望を口にすると、そんなことを言って本当になったらどうするのかとたしなめられることもある。これらは現代に残る言霊思想の発露だと考えている。
是の白猪になれるは、其の神の使者ぞ
社長を秘書と間違えるようなもの。以下、コトアゲしたことというより、その失礼千万な発言内容が神の怒りを招いたと考えられないか。倭建の子、仲哀天皇も、神を信用しない発言をしてその怒りに触れ、早死にした。
今殺さずとも、還らむ時に殺さむ
白猪「わしを下っぱと間違えたなァァァしかも殺すだとォォォ」←怒っている。白猪「わしに楯突いて、生きて帰れると思っとるんかい! し、しかも素手ぇ!? きっさまァ、わしをなめくさっとるな──!!」ぷつん。
大氷雨
本来は雹、霰の意だが、転じて大雨の意にも。これが伊吹山の神の、本当の正体である。山で雨に打たれること、疲労すること(神の気に当たる、という)、獲物が得られないことなど、人を苦しめ害することは、何もかも山の神のしわざであった。
(此の白猪に化れるは…言擧に因りて惑はさえつるなり)
この分註は、倭建が大雨に打ち惑わされることになった原因を種明かししている。やはり、神をその使者と間違えた発言が、命取りになったのである。そうでなければ、わざわざ白猪が神自身であったことを本文で伏せておいたりはしない。
玉倉部の清泉
滋賀県坂田郡米原町の醒井、岐阜県不破郡関原町の玉井などが候補地。
御心稍に寤めましき
上代において、清い水はたいていこのような効力を持つものだが、その水を飲まないのに、近くに居ただけで体調が回復したので「居醒」か。