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現代語訳

その国から信濃国に越えて、信濃の坂の神を言葉でもって服従せしめ、尾張国に帰って来て、以前契りを交わした宮主媛のもとにお入りになった。そこで大御食を差し上げた時に、その宮主媛が大盃を捧げて奉った。そのときの宮主媛は、服の裾に月経の血がついていた。

そこで、その月経を見て御歌を、
  〈久堅の〉 天の香具山を 鎌形に 渡る白鳥(のような)
  かよわい たおやかな腕を 枕にと しようとするが
  寝ようとは 私は思うが あなたの着る 襲の裾に月が立ったよ
  (共寝しようと思って来たのに、月経が来てしまったよ)
と詠んだ。すると宮主媛が、御歌に答えて
  〈高光る〉 日の御子 〈八隅知し〉 我が大君
  〈新玉の〉 年が経つなら 〈新玉の〉 月も経ちます
  誠にあなたを 待ちきれないで 私の着る 襲の裾にも 月が立つのでしょう
  (あなたがあまり待たせるものだから、月日が経って、月経が来てしまったのでしょう)
と詠んだ。

そのため、ここで共寝して、その御刀の忌蛇ノ剣を、その宮主媛の許に置いて、伊吹の山の神を殺しにお行きになった。

原文書き下し

其の國より科野國[しなののくに]に越えて、乃ち科野の坂の神を言向けて、尾張國に還り來て、先の日に期りたまひし美夜受比賣の許に入り坐しき。是に大御食獻りし時、其の美夜受比賣、大御酒盞[おほみさかづき]を捧げて獻りき。爾に美夜受比賣、其れおすひ[すそ]に、月經[つきのさはり]著きたりき。

故、其の月經を見て御歌曰[みうたよ]みしたまひしく、
  ひさかたの 天の香具山
  利鎌[とかま]に さ渡る[くぐひ]
  弱細[ひはぼそ] 手弱腕[たわやがひな]
  []かむとは 我はすれど
  さ寝むとは 我は思へど
  汝が服せる 襲の裾に
  月立ちにけり
とうたひたまひき。爾に美夜受比賣、御歌に答へて曰ひしく、
  高光る 日の御子 やすみしし
  我が大君 あらたまの
  年が來經[きふ]れば
  あらたまの 月は來經[きへ]行く
  [うべ]な諾な諾な
  君待ち[がた]に 我が服せる
  襲の裾に 月立たなむよ
といひき。

故爾に御合したまひて、其の御刀の草那藝劒を、其の美夜受比賣の許に置きて伊服岐[いぶき]の山の神を取りに幸行でましき。

其の國より科野國に越えて…尾張國に還り來て
甲斐→信濃→尾張というと、丁度現在中央自動車道が通っているルート。信濃から信濃坂=神坂峠を通って美濃へ抜け、尾張へ出たのであろう。萬葉集四四二〇「ちはやぶる神のみ坂に幣奉り齋ふ命は母父がため」は、神坂峠で防人の神人部子忍男が詠んだものとされている。古来から、東山道最大の交通の難所だったのだ。
おすひ(襲)
女性が着衣の上から被る、頭から足まで全身を覆う長い布。神事のときには腕に掛けるものだが、このときどちらだったのかは判らない。
ひさかたの… 高光る…
この二首、歌垣(山野で男女が歌をやり取りする、性的開放の場。未婚者には集団見合い、既婚者には公認の浮気の日である。カガヒとも)の歌の流用ともいう。すなわち、迫ったのにすげなく断られた男が、あの日だから残念だけど断るってんだな、と負け惜しみを言う。すると女がからかって、あたしはあんまりあんたに待たされて、あの日になっちゃったのよ、と調子を合わせる。両歌では、月経は汚れ(赤穢)で、性交不能の状態。
其の御刀の草那藝劒を、其の美夜受比賣の許に置きて
これから有名な交通の難所の神の首を取りに行くというのに、天照の守護ある尊い剣を置いて行ってしまう。逸文『尾張国風土記』には、倭建が美夜受比賣の家で厠を借りたとき、厠の側の桑の木に剣を懸け、それを忘れて館に入ってしまった。後で慌てて取りに行ったところ、その剣が光り輝いて触れることができなかったので、美夜受比賣に祭祀を依頼して置いて行った、とある。桑は雷神が天地を行き来するときの踏み台になる聖樹。剣に雷神が宿ったということなのだろう。物語の流れとして見るならば、倭建がますます粗暴になって、自分の力を神以上と考え、それが災いして命を落とすことの伏線になっている。私見を言うなら、忌蛇剣は、三種の神器に定められる以前は、石上神宮の布都御魂剣に比べれば、あまり重要でない剣だった(忌蛇剣を祀る熱田神社は、天武天皇の頃までほとんど省みられていなかった。天武は『帝記』『旧辞』を撰録して、日本の神話および古代史を、ほぼ現在に近いものに改変した張本人である)。倭姫は倭建に、尾張氏を服従させるための策として、つまりは美夜受比賣との婚姻のための結納として、軽い気持ちで託したのではないか。
伊服岐の山の神
近江と美濃の境(滋賀県坂田郡)にある。関西地方の天気予報ではお馴染みの伊吹山で、周りが晴れているのにそこだけ雨が降っていたりする、天候不順の難所である。故に、その神も典型的な交通障害神と想像される。