現代語訳
そこから(東へ)入ってお行きになって、ことごとく人に害をなす蝦夷どもを言葉でもって服従せしめ、また山河の人に害をなす神どもを鎮めて、帰還する時、足柄山の麓に至って、お食事をするところへ、その坂の神が白い鹿になって来た。そこで食べ残した韮の切れ端でもって、迎え打ったところ、その目に当たって、即座に打ち殺した。
そして、その坂に登って立って、三度溜め息をついて、「吾妻はや(私の妻よ)」とおっしゃった。そこで、その国を名付けてアヅマという。
そしてその国から甲斐に越えて出、酒折ノ宮にいらっしゃる時、歌を、
新治 筑波を過ぎて 幾夜寝たろう
と詠んだ。そこでその御火焼の役目の老人が、御歌に続けて歌を、
日々並べ 夜なら九夜 昼なら十日を
と詠んだ。これをもって、その老人を誉めて、すぐに東国の国造の姓を授けた。
原文書き下し
其れより入り幸でまして、悉に荒ぶる
蝦夷 等を言向け、亦山河の荒ぶる神等を平和 して、還り上り幸でます時、足柄の坂本に到りて、御粮 食 す處に、其の坂の神、白き鹿に化りて來立ちき。爾に即ち其の咋 ひ遺したまひし蒜 の片端を以ちて、待ち打ちたまへば、其の目に中 りてすなはち打ち殺したまひき。故、其の坂に上り立ちて、三たび歎かして、「あづまはや」と詔云りたまひき。故、其の國の名を
阿豆麻 と謂ふ。即ち其の國より越えて、甲斐に出でまして、
酒折宮 に坐しし時、歌曰 ひたまひしく、
新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
とうたひたまひき。爾に其の御火燒 の老人 、御歌に續 ぎて歌曰ひしく、
日々並 べて 夜には九夜 日には十日を
とうたひき。是を以ちて其の老人を誉めて、即ち東の國造を給ひき。
註
- 蝦夷
- 朝廷に従わない人々を、中国的用字で表したもの。
- 足柄
- 相模国足柄山=神奈川県・静岡県の県境
- 坂の神
- これも境界神である。神はふつう人に正体を見せず、動物などに化身して現れる。
- 白き鹿
- 動物のアルビノ(白子)は神聖視される。
- 蒜
- ネギ、ノビルなどの総称。においの強いものには、悪いものを退ける呪術的な力があると考えられた。葉が刀の形であることや、蒜が疲労回復に効くことも関連するか。なお、この話は信濃国神坂峠(長野県と岐阜県の県境)の昼神(蒜噛)神社に伝わる。
- 打ち殺したまひき
- 倭建はやはり言向けせず、殺戮ばかり繰り返している。
- あづまはや
- 文脈としては弟橘比売のこと。
- 故、其の國の名を阿豆麻と謂ふ
- 日本書紀は、これを上野と信濃の国境の碓井坂でのこととする。地元の伝承では鳥居峠。『常陸国風土記』に、足柄峠から東の諸県をアヅマと称したとあって、古事記はそれと符合させようとしたか。
- 酒折宮
- 甲斐国=山梨県甲府市の酒折神社か。
- 新治
- 常陸国新治郡=茨城県真壁郡。
- 筑波
- 常陸国筑波郡。連歌の祖を倭建とし、連歌を筑波の道というのはここから。
- 御火燒
- かがり火の番をする役職。「ひたち」の国を経って幾晩寝たか、という問いかけに、「みひたち」の老人が答える時点で既に物語的。
- 東の國造
- 東というのは行政単位の国ではないので、正確ではない。近畿の県知事、というような表現。このころまだ東国は平定しきれず、国の名も国境も漠然としていたとも取れる。