風土記概説

「風土記」とは、地方の書物という意の普通名詞である。ここでは、その中でも特に古風土記と呼ばれるもの、すなわち元明天皇の和銅6年(713)の中央官命によって撰録されたと思われる、地方官の報告書を指すものとする。

官命は、(1)郡郷の名を好字(漢字二文字の良い字)で書き、(2)産物、(3)地味、(4)地名起源、(5)古老の旧聞異事を筆録して報告せよ、というもの。(1)は大化の改新による行政区分新制の整備徹底のため、(2)(3)は租税徴収・班田制実施の資料とする目的であろう。

官命の発令は『古事記』成立の翌年、『日本書紀』撰進の7年前のことであったが、豊後・肥前のものは、成立年代が明らかに書紀以後である。また、天皇の行幸記事、特に地名起源説話については、有名人の来訪あったというお国自慢や浮説の混在も考えられる。

ここで掲げる現代語訳は、筆者が平易に口語訳したものである。

播磨国風土記

713年頃、巨勢朝臣邑治の監督のもとで筆録?

賀古郡[かこのこおり]城宮[きみや]
兵庫県加古川市加古町木村。印南別嬢が大帯日子命と正式に結婚してから住んだ宮。大碓小碓を産んだとすればここであろうが、記事にそのことは見えない
賀古郡日岡比礼墓[ひれはか]
兵庫県加古川市加古町大野。印南別嬢が亡くなったので、日岡に墓を造って葬った。その遺体を捧げ持って加古川を渡るとき、烈しいつむじ風が川下から来て、その遺体を川に巻き込んだ。探しても得られなかった。ただ化粧箱と褶(肩に掛けて垂らす婦人の装身用の布)のみが得られた。そこでこの二つの物をその墓に葬った。それで褶墓という。

肥前国風土記

732年以降、太宰帥藤原宇合の監督のもとで筆録?

佐嘉郡[さかのこおり]
佐賀県佐賀市から佐賀郡。日本武尊が巡行なさった時、楠が茂り栄えているのをご覧になって、「この国は栄の国と呼びなさい」とおっしゃった。そこで栄郡という。後に改めて佐嘉郡という。
小城郡[おきのこおり]
佐賀県多久市から小城郡。昔、この村に土蜘蛛(朝廷に従わない土着民)がいて、小城(城壁)を造って隠れ、天皇の命令に従わなかった。日本武尊が巡行なさった時、ことごとく誅罰した。そこで小城郡という。
藤津郡[ふじつのこおり]
佐賀県藤津郡から鹿島市。昔、日本武尊が巡行なさった時、ここの津(海岸)に至ったところ日没となり、御船をお泊めになった。翌朝ご覧になると、船の綱を大きな藤の蔓につないでいらっしゃった。そこで藤津郡という。

常陸国風土記

714~730年、石川難波麿採録、藤原宇合完成?

常陸国

常陸国
茨城県。ある人が言うには、倭武天皇が東の蝦夷の国を巡行して、新治の県をお通りになったとき、国造毘那良珠命[ひならすのみこと]を派遣して、新たに井戸を掘らせると、湧く水は清く澄んで、とても素晴らしかった。そして、御輿を止めて水を賞玩し、御手をお洗いになった時、御衣の袖が泉に垂れてひぢた(浸った)。そこで、袖を浸す意味で、この国の名とした。

信太郡[しだのこおり]

乗浜里[のりはまのさと]
茨城県稲敷郡霞ヶ浦の海岸。古老が言うには、倭武天皇が、海辺を巡行され、乗浜に至られた。その時、浜にたくさん海苔を干していた。そこでノリハマの村という。

茨城郡[うばらきのこおり]

桑原岳[くわはらのをか]
新治郡玉里村あたり? 昔、倭武天皇が、岡の上に留まられて、お食事を奉った時、水部(水を管理する民)に新たに井戸を掘らせたところ、湧く水は清く香気あり、飲用に好適であったので、「よくたまった水であるなあ」とおっしゃった。そこで、里の名を、今は田餘という。

行方郡[なめかたのこおり]

現原[あらはら]
茨城県行方郡玉造町現原。行方郡という訳は、倭武天皇が天下を巡行なさって、海(霞ヶ浦)から北を征服なさった。その時、この国を通過して、すぐに槻野の泉においでになって、水で御手を洗われ、玉でもって(玉にたとえて?)泉をお誉めになった。今も行方里の内にあって、玉の清水という。さらに御輿を巡らして、現原においでになって、お食事を奉った。その時、天皇は四方を見渡して、侍従を振り返って、「輿を停めて逍遙し、目を上げて遠望すれば、山海の曲線があい交わっている。峯の上には雲を浮かべ、谷の底には霧を抱いて、風光明媚、地形も実に美しい。この地の名は行細(なめくわし=並べ詳しき)の国と言いなさい」とおっしゃった。
当麻郷[たぎまのさと]
茨城県鹿島郡鉾田町当麻。古老が言うには、倭武天皇が巡行して、この郷をお過ぎになるときに、佐伯(土蜘蛛の類)の鳥日子という者があった。命令に逆らったため、すぐに殺された。そして、屋形野の帳の宮においでになるとき、御車の通る道は狭く凹凸が烈しかった。悪い路の意味で、当麻という。
芸都里[きつのさと]
茨城県行方郡北浦村蘚沼。昔、国栖(土蜘蛛の類)の寸津毘古[きつひこ]寸津毘賣[きつひめ]という二人がいた。その寸津毘古は、天皇(倭武?)がおいでになるにあたって、命令に背き教化に従わず、たいへん無礼であった。そこで御剣を抜いて、すぐに斬り殺された。そこで寸津毘賣は恐れおののいて、白旗を掲げてお迎えして拝んだ。天皇は哀れに思って恵みを垂れ、住むことをお許しになった。
小抜野[おぬきの]
茨城県行方郡北浦村小貫。(芸都里から)さらに御輿を巡らして、小抜野の仮宮においでになると、寸津毘賣が姉妹を率いて、誠に心を尽くし、風雨も厭わず、朝晩お仕え申し上げた。天皇は、その慇懃であるのをお喜びになって、うるわしく思われた。そこでこの野を宇流波志の小野とも言う。
波須武[はずむ]の野
茨城県行方郡麻生町小牧あたり? 倭武天皇が、この野に宿られ、弓弭[ゆはず]を繕われた。そこで名付けられた。
大生里[おほふのさと]
茨城県行方行方郡郡潮来町大生。古老の言うには、倭武天皇が、相鹿の丘前の仮宮にいらっしゃった。この時、炊屋(大飯殿)を海辺に構えて、艀を連ねて橋にして、いらっしゃる所に通った。大飯の意味で、大生の村という。
相鹿里[あふかのさと]
茨城県行方郡麻生町。倭武天皇のお后の大橘比賣命が、倭から下ってきて、この地でお会いになった。そこで安布賀の村という。

鹿島郡[かしまのこおり]

鹿島神宮
茨城県鹿島郡。古老が言うには、倭武天皇の治世の時代に、鹿島の神が中臣巨狭山命に「今、船を奉れ」とおっしゃった。(後略)

久慈郡[くじのこおり]

久慈郡
茨城県久慈郡及び那珂郡の久慈川流域。古老が言うには、郡から南に、近く小さい丘があった。形が鯨に似ていた。倭武の天皇が、そのため久慈とお名付けになった。
遇鹿[あふか]
茨城県日立市会瀬? ここから北東のほう二十里のところに、助川の驛(馬の乗り継ぎ駅)がある。昔は遇鹿と言った。古老が言うには、倭武天皇がここにおいでになった時、皇后が参上してお会いになった。そこで名付けられた。

多珂郡[たかのこおり]

飽田村[あきたのむら]
茨城県日立市小木津相田。その陸奥の(昔は常陸国だったが現在は陸奥国に属している)里に、飽田の村がある。古老が言うには、倭武天皇が東国を巡行しようとしてこの野に宿られた時に、ある人が「野のあたりに群れている鹿は、とてもたくさんいます。その角はまるで枯れ葦の原のよう、その息はまるで朝霧の丘のようです。また、海には鮑がいます。大きさは八尺もあります。また、いろいろな珍味や釣魚がたくさんあります」と申し上げた。そこで天皇は野にお行きになって、橘の皇后に海で漁をさせて、獲物の数を競争して、山海の物をそれぞれ狩られた。この時、野の狩は終日獲物を追って矢を射たけれども、一匹の獣も得られなかった。海の漁は、須臾ほどのわずかな間だけ漁をして、たくさんの獲物を得られた。狩と漁とを終えて、お食事をなさる時に、侍従に「今日の遊びは、私と后と、それぞれ野と海に行って獲物を競った。野の物は得られなかったが、海の珍味はことごとく飽きるほと食べた」とおっしゃった。後に、その故事によって飽田の村と名付けられた。
藻島の驛家[めしまのうまや]
茨城県日立市十王町。郡の南三十里のところに、藻島の驛がある。東南のほうの浜に碁石がある。色は玉のようである。いわゆる常陸の国に産する美しい碁石は、ただこの浜からだけである。昔、倭武天皇が、船に乗り海に浮かんで、島の磯をご覧になると、種々の海草がたくさん生えて繁っていた。そこで名付けられ、今もそうである。

出雲国風土記

733年2月、勘造者神宅臣全太理、責任者出雲臣広島

出雲郡建部郷[たけるべのさと]
島根県簸川郡斐川町武部。建部郷と名付けられたのは、纒向の日代の宮で天下をお治めになった天皇(景行)が、「我が御子、倭建命の御名を忘れまい」とおっしゃって、建部をお定めになった。その時、神門臣古祢を建部とお定めになった。そこで、建部臣たちは、昔から今に至るまで、なおここに住む。そのため、建部という。