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現代語訳

既にねぎつ

天皇が小碓命に「何故に汝の兄は、朝夕の会食に参上せぬ。汝だけで(参上するよう)懇ろに教え諭せ」とおっしゃった。そうおっしゃってから後、五日にもなって、(兄は)まだ参上しなかった。

そこで天皇は、小碓命に「何故に汝の兄は、久しく参上せぬ。もしや、まだ教え諭しておらぬのでは」とお問いになったので、(小碓命は)「もう懇ろにした」と答えて申し上げた。また「どうやって懇ろにした」とおっしゃれば、「明け方に厠に入ったときに、待ち伏せして捕まえて、掴み潰して、手足を引きもいで、むしろに包んで投げ捨てた」と申し上げた。

原文書き下し

天皇、小碓命に[]りたまひしく、「何しかも[いまし]の兄は、朝夕の大御食[おほみけ]參出來[まいでこ]ざる。[もは]ら汝ねぎ教へ[さと]」とのりたまひき。如此[かく]詔りたまひて以後[のち]、五日に至りて、猶參出來ざりき。

[ここ]に天皇、小碓命に問ひ賜ひしく、「何しかも汝の兄は、久しく參出ざる。[]し未だ[おし]へず有りや」ととひたまへば、「既にねぎつ」と答へ[まを]しき。又「如何にかねぎつる」と詔りたまへば、答へて白しけらく、「朝署[あさけ][かはや]に入りし時、待ち捕へてつかみ[ひし]ぎて、其の枝を引き[]きて、[こも][つつ]みて投げ棄てつ」とまをしき。

汝の兄
大碓命と櫛角別王の二人がいる。先の天皇妃横取り事件は、大碓命が尊大になって天皇に従わなくなったこと(次項も参照)の伏線であろうから、大碓命が妥当。イロセは自分と母が同じである男性(兄弟)のこと。同母の女性(姉妹)はイロモという。年齢の上下を言いたいときには、イロネで兄姉、イロトで弟妹。ちなみに生母はイロハという。母系社会的呼称。
大御食
皇子などが天皇とともに食事をするきまりがあったらしい。アイヌに、婿が家に入るときに、まず同じ火で調理した食物を家族とともに食べるという習慣があった。天皇との共食は、同じ共同体に属すること、つまり天皇への服従をを確認する意味を持っていただろう。その大御食に出てこないことは、つまり朝廷から出奔したか、自分自身を最高権力者と考えているかで、これは謀叛と取られても仕方ない。
ねぎ教へ覺せ
けれども天皇はいきなり怒ったりせず、まず朝廷に帰ってくるよう呼びかける。動詞ネグは、上位者にネグなら祈ること、下位者にネグならねぎらうことになる。
既にねぎつ
小碓命にとってのネグの意味は、景行天皇のネグと違う。小碓命は、背中に絵が描いてあるおじさんがにすごんで、「ちっとかわいがってねぎらったれや」と言うような意味に取ったのである。小碓は兄をさんざんにかわいがって、つまり痛めつけて彼なりに教えさとしたけれども、大碓は死亡あるいは大怪我をして、朝廷に帰りたくても帰れなかったのだろう。怪力で素直だが性格が粗暴で、しかもちょっとオツムが弱い小碓像を演出している。吉井厳氏は『ヤマトタケル』で、原型は民間の笑い話であろうとしている。
朝署に厠に入りし時…
私の大好きな(論文が面白いのだ)国文学者の守屋俊彦先生に、『厠の中にて─大碓命と小碓命』という論文がある。それによると、厠は「川屋」、つまり河の上に設けられた小屋で、神が通ってくる入口であった。次代天皇の座を争っていた大碓と小碓は、神聖な小屋である厠にこもって、どちらが天皇に相応しいか祈って(ネグ)神意を問い、結局神意は小碓が相応しいと下った、という。厠に厠神がいることは確かで、倭建命も大事なクサナギの剣を解いてから厠に入っている(逸文伊勢國風土記)。